先代の話

「なぜ、大工になったのか?」
父親である先代に聞いてみました。


文/藤井祥司(専務取締役)

僕は、大工の棟梁を父親に持つ三男坊です。
そして、僕は、大工が嫌いでした。

そうです、正直なところ、父親があまり好きではなかったのです。それは、小さい頃に遊んでもらったことが、ほとんどないからです。父親は、日曜も祝日もなく毎日現場に行っていました。僕は、中学校になる頃には、夏休みなど手伝わされることもありました。そして、ますます、大工が嫌いになったわけです。

そんな僕は、大工になっていました。
正確には、工務店として父から継いで、兄といっしょに家を建てています。

この正月、父親に聞きました。
「なぜ、大工になったのか?」

少し戸惑いながら、少し照れながら、そして少し懐かしそうに、「そうだな・・・なんでだったかな・・・」とポツリポツリと話が始まりました。

01

15歳で大工見習いに。

父親は、昭和6年1月30日生まれです。生まれて2歳と8ヶ月で母親と死に別れました。この時、初めて僕はこの話をちゃんと聞きました。だから、父は「母の顔も知らんのだ・・・」と言います。その頃ですから、写真もまだ無いんです。自分の母親がどんな顔してたか・・・。記憶も、写真も、何にも、無いんです。
「お父さんのお母さんだから、僕のおばあちゃんか・・・」
僕も逢ってみたかったです。いや、何処かに1枚くらい写真があるかも知れないですね・・・。もう少し、さがしてみましょう。

それから、父が小学校に入学した年に支那事変が始まったということです。そして、10歳の時には、大東亜戦争が始まりました。昭和20年の14歳の時、少年航空兵(無線通信士)を志願し、小学校から一人だけだったということですが、少々、背が低かったにもかかわらず、身体能力など問われる難関を見事に突破して、海軍飛行予科練習生(ヨカレン)として9月には入隊予定だったようです。しかし、それを前に、8月15日に終戦をむかえたのでした。父親は、「9月には入隊だったのに・・・」と残念そうに言います。もう少し、終戦が遅れていたら、僕は生まれていなかったかもしれません。

15歳、学校を卒業した父は、金尾棟梁のもとに大工見習いとして入りました。「なんで大工なんかになるんだ?」と周りの大人たちは、あまり奨めては無かったようです。ですが、これが父の大工としての始まりです。大工見習いというのは、棟梁の下に数人いる弟子のその下で、兄弟子たちの刃物を磨いだりして、「指の先から血が噴くくらいやらされたもんだ・・・」とよく聞かされました。

02

寺院の新築工事との関わり

そんな中で、19歳の時に、初めてお寺の仕事に携わったのです。時安の幸福寺本堂の新築工事でした。そして、20歳の時には、油木の正善寺鐘楼門の新築工事に従事したということで、このときのエピソードとして、面白い話をしてもらいました。

この鐘楼門をすることになって、まず、参考にするために、あの有名な瀬戸田の耕三寺に行って、ハシゴをかけて登って、枡組みなどの原寸を測ってきた・・・というのです。もちろん、ちゃんと断りを言って・・・ということですが、住職もびっくりしていたらしいです。

21歳の時には、矢川の明神様の神殿新築工事に携わりました。そして、25歳の時には、神辺町では3人目という早さで2級建築士を取得したのです。人に負けるのが、とにかく嫌だった・・・という性格のようで、仕事でも、勉強でも、何でも、とにかくがんばった!ということです。

そして、いよいよ26歳の時です。時安の教西寺の本堂と客殿の新築工事を棟梁として任されたのです。その当時、このようなお寺の本堂新築の棟梁というのは、工事全ての責任者で、しかも泊り込みの仕事ですから、毎日の食事というか、工事期間中の米など食料の段取りまでしなきゃならなかったらしいです。しかも、まだ若干26歳の棟梁です。みんなの前では、門徒さんなどに心配されても困るということで、31歳ということで通したとか。

また、経験があるとはいえ、まだまだわからないことも多く、しかし、棟梁としては「わからない・・・」では済まされるわけもなく、ふとんの中で、かくれるようにして段取りの確認や納まりの勉強しながらだったな・・・ということです。今なら、携帯電話で親しい先輩に「ちょっと教えてくれる・・・」なんてことが出来るんですが、当時はもちろん不可能ですからね。

昭和31年9月23日と写真の裏にありました。
時安 教西寺本堂、客殿新築の棟梁として(真ん中です。26歳)
03

マイホームの建築と、その後。

実は、この頃、すでに父は母と結婚していたんです。20歳で結婚したそうです。
そして、毎月、5,000円の貯金をはじました。そうです、家を建てるために、コツコツ貯める計画を実行したのです。100万円を目標に、13年で家を建てると決めていたそうです。ちょっと計算があいませんが、それも勢いで乗り越えたようです。

そして、33歳の時、土地を買って、家を建てました。もちろん、僕がこうしてスクスクと育った家です。ただし、僕が生まれる前に家が出来たので・・・そうなんです、僕の部屋は無かったのでした・・・。まあ、結果的には、姉兄との年も離れているので、僕が部屋が欲しい年頃になった時には、2階の二部屋は自由に使えてましたけど・・・。

そして、僕が生まれる前、この家が出来る前の年に、父の父、つまり僕のおじいちゃんとも死に別れました。父は、32歳で両親とも亡くしたということです。

昭和39年4月1日
我が家の上棟日の写真です。真ん中にいるのが父親です。
その後も、40歳の時に山野の馬乗観音の鐘楼や、57歳の時に円通寺の位牌堂の新築を手がけています。62歳の時に、悟真寺の納骨堂を新築するんですが、そこにやっと登場できるんです、僕が・・・。そうです、大工の祥ちゃんが、初めて携わったお寺の仕事です。

その後も、広山寺の鐘楼門の改築工事や、円通寺の客殿増築工事をしてきました。お寺の仕事ばかりを並べましたが、この間には、山野小学校の外壁の「焼き杉」の鎧張りを人の倍のスピードでした・・・等の話もよく出てくるんですが、学校関係や縫製工場など、比較的に大きな建物をたくさん手掛けてきたということです。

もちろん、住宅も「200棟くらいかのう、全部じゃないけど・・・」と、大切に保管してある『お祝儀』袋を見せてもらいました。

背丈は160cmで、けっして大きくはないけど、負けず嫌いな分だけ、がんばったんだろうなーというのが伝わってくる話ばかりでした。やっぱり、僕たちには、大きな棟梁です。


僕も家を建てます。
気力と体力と智力を全力で、「いい家」だけを建てます。「いい家」を喜んでくれる人のために建てます。
それが棟梁の三男坊の生き方かなと思いはじめました。
そして、僕も負けず嫌いなんだな・・・と思いはじめました。